プロデュース&デザインオフィスビオス
 


げんきなデザイン、たのしいシゴト ビオスがつくるあかるいくらし。

ビオス・ストリートから見える農地や里山は、住民の散歩やピクニックの場でもあります。そんな場所が実際のところほしいですよね。

兵庫県みどり公社の地域活性化アドバイザーをしているおかげで、ときおり、農林水産業関連の刊行誌や機関新聞から原稿依頼がきます。そんなとき、こうした農林漁業や農山漁村への思いを書いています。

 

「私のなかの農村風景」

 私の中でふと浮かんでは消えていくイメージがあります。それは中学のときの国語の授業で「晴耕雨読」という熟語を聞いた瞬間、頭の中に焼きついてしまった風景です。言葉の由来はよく覚えてはいませんが、田園での静かで知的な暮らしを謳った漢詩の一節だったような気がします。一方でその風景はずっとはっきりとしていて、小川を挟んだ里芋の葉なみ、裏山から迫る竹林、落ち着いた農家の小ぶりな軒下、長雨に濡れる縁側、何もない十畳に染みる雨音、1人の男と猫が一匹そこに寝そべっていて、李白か何か薄い本を読んでいる…そういったものだったのです。歳を取るにつれて、この言葉は少しずつ重みを増し、風景はより鮮明なディテールを装いながら、いつも私のどこかにあって、ふとしたときに現れ続けるのです。

 私が生まれる少し前、昭和20年代も終わりのころ、私の父は姫路市のアーケードに覆われた商店街で洋服屋を始めました。そこは夕方になっても明るく照らされ、夕立にも濡れないという都会的な場所だったので、大自然の営みを身近に感じることはありませんでした。ですから小学時代の夏休みなど、私は揖保川や千種川の上流に住んでいた縫製の職人さんたちの家に押しかけては、野をかけ川に遊ぶことに大層な喜びを感じたものです。川で採った魚、田んぼで育ったお米、山で取れた野菜、夕方には真っ暗で何も見えない道、闇に聞こえる生き物の声、自然と共存するこういった山里の暮らしは私にとって途方もなく贅沢なものに思えました。晴耕雨読が憧れとして焼きついたのはそういった体験からかもしれません。

 さて、頭に浮かぶこの風景に対して私はどうするかというと、その縁側や畑に自分自身を置いてみては、今は無理、いつかきっと、と繰り返すばかり。つまり、私ときたら、雨が降ろうが風が吹こうがコンクリートの建物の中で、さも忙しそうに働いていて、根っからの都会人のようにコンピュータや電話と格闘しながら年を取ってしまって、晴耕雨読にはちっとも近づいていないのです。説得力はありませんが、私なりの言い訳として農村文化崩壊への恐怖があるのです。

 仕事柄、私は多くの中山間地域を回り、いろいろな農村を見てきました。四国では日本の秘境といわれる東祖谷山村の仕事も手がけました。そんな奥地でも、いや奥地に行けば行くほど農村の原点、農業の美しさを理解している人たちが稀有に思えます。目に見えるかたちを変えていけば、中に育つものも変わってしまいます。米や野菜を生む水田や畑の象徴的な美しさ、あるいは百年を超える畦や石橋の苔むした豊かな表情、そういった農村文化が誇った確かな知恵や鋭敏な空間の感覚が、都会の象徴であるコンクリートへの憧れや心ない計画者によっていずれは全壊するだろうという恐れを抱いているのです。私の少年時代にはそれほど遠くまで行かなくても存在していた農村風景は、ずっと不便な山奥に追いやられてしまっていて、そこでは私は仙人のような暮らしに耐えなくてはなりません。そう考えると、また晴耕雨読が遠ざかっていくのです。

 最後に余談ですが、晴耕雨読の風景の男のイメージは贅肉がなく引き締まった体をしているのに、私は肥満するばかりなので、どうも最近では自分を置き換えてみることも億劫になってきたようです。私が肥満体質になったことは、とりあえずご飯を最後の一粒まで残さずに食べないとお百姓さんに怒られるというのが口癖だった母のせいにしています。とにかく母が育てると犬でも鳥でもみんな太ったのですから。しかし、今でもご飯を粗末にするとお百姓さんに怒られるのでしょうか。

 

「アドバイザーの提言」原稿

 この度「ひょうご農村活性化だより」と「森と緑の広場」が統合され、「みどりのひろば」として新しくスタートした。名誉なことにその第1号に記事を書かせていただくことになり、テーマは自ずと、この2誌の統合にちなんだものが良いと感じている。
10年ほど前になるが、県立淡路景観園芸学校の構想に携わり、建築や造園、土木や園芸、そして農業など、本来一体となって豊かな地域風土を形成していた営為に、失われつつある関連性を取り戻し、まちづくりを文化的な行為と捉える教育を夢に描いた。そのときにはさまざまな分野や組織が、「暮らしに豊かさを」という1つの目標のもと協働し、融合して、まさに時代の先駆けだった気がする。
今回の2誌の統合にも農山漁村の活性と、森林管理や県土緑化という、これまで違う分野だったものが1つになっていく時代の流れを感じている。「生産の経済性」と「環境保全」という一見相容れない事柄にほど良いバランスを持たせながら、大きな視野で県土全体をもっと暖かいものにするよう動いていければこれも時代の先駆となるだろう。

 さて、こうした世の流れを見据えるに、都市と農村も、1つの運命共同体として捉えるときではないのだろうか。都市の機能は成熟し、あちこちに歪みが生まれ、一方の農山漁村では機能の見直しが進んでいる。双方、機能は違えど、どちらもが生活空間であり、生産現場である。勿論、われわれには双方が不可欠であり、この2つの共生と循環が今後数十年の重点テーマであると私なりに考えている。
とはいえ近ごろは、生活が急速に変化した昭和の高度成長期に比べても変化がめまぐるしい。例えば、石油や原子力に替わって、バクテリアや二酸化炭素など、SF小説にしか見られなかったようなエネルギーが日々、急速に実現しつつある。そう、世を動かす時代のキーワードでさえ、この10年たらずのうちに、花緑から地球環境へ、健康からこころの癒しへ、IT革命から農の時代へと駆け抜け、今の流行りは自己実現・充足だという。巷で云う熱しやすく冷めやすい国民性に咎を押し付ける気はないが、かの「農の時代」というキーワードには何とか長生きしてほしい。

 稲穂が稔る秋の棚田や干物が並ぶ離島の漁港など、昔ながらの生産風景は、わたしたちのこころを静かに癒してくれる。自然と向かいあってきた田舎の暮らしに我が身を置くことは、都市住民にとって大きな愉しみである。しかしながら、その同じ風景が、農業従事者にとってはまさに自然や経済との戦いの場でしかないし、反対にコンクリートで固めた無機質な都市が、とても便利で刺激的なところに映るようである。どちらもわたしたちの暮らしには欠かせないのは誰もがわかっているけれど、自分から何かを始めることはなかなかできない。
淡路島から日本海まで、兵庫県には新鮮な山海の幸があふれ、四季の恵みや先人の知恵が多く、まさに膨大な財産である。われわれはそうした“ふるさと”を壊さないよう、農山漁村自身に働きかけるべきである。同時に、都市の人々にも、この恵みを共に大切に守り育てるよう働きかけなければならない。都市がこれらの資産を評価し、守ることで双方の向上を図るという、人やエネルギーの大きな循環が求められているのである。
 折りしも、今年10月、但馬で全国グリーン・ツーリズム研究大会が開催される。都市と農村が、残された貴重な資源をともに見直し、互いの協力やその方法について語り合う絶好の機会になることを願ってやまない。

産業と割り切れない「農業」の価値 

 サラリーマンを始めてからというもの、私はいつも忙しい。酉年生まれということか、いつもそこいらを小走りに駆け回り、せっかちである。来月はのんびり過ごすと息巻くと、必ず何やら新しい案件が舞い込み、また駆け出す。仕事場が変わろうが暮らしぶりは変わらない。性分だろう。はたと振り返り、私を動かしていることの根っこを考えてみたが、金じゃあないのは確かである。強いていえば、いいモノをつくる喜びか。
 最近よく、こんな自分に農業はできるだろうかと考える。数年前から、ひょうご農村活性化公社の手伝いをしていて、私ぐらいの歳できっぱり会社を辞め、営農に飛び込んだ夫婦や、借金をして農業を始めた若者らと出会い、田畑で汗を流す彼らに触れるたびにそれを想うのである。
日本の農業は曲がり角にある。外国との競争、情報化との対峙、食文化の脆弱化、農村の高齢化と、難題が山積みである。勝つためには変わらなくちゃいけない、と何もかもを変えようとする現代に、農が直面する曲がり角は工業や商業のそれよりも奥が深い。
私に農業経営の難易を説く背景はないが、産業としての構造転換を強いられたとしても、農の本質は耕す文化であり、われわれが数千年営んできた暮らしのルーツであって、それは変わりようがない。また、文化は金で割り切れるものではなく、その点において農業は単なる産業ではありえない。地に足をつけ、耕し、収穫することに人の営みの原点があって、サラリーマンには味わえない苦しみやそれを乗り越えた喜びがあると私は思っている。
私のようなせっかちには無理とわかりながら、耕す土地を持ち、季節や植物の足並みで暮らすあなた方への嫉妬は膨れるばかりである。